私は生まれつきの脳性マヒです。
1956年12月19日です。10日後に
高熱が3日続きました。首がすわるのも遅かったみたいです。
明治の祖父、祖母が佐知子の成長が遅いと悩んでいました。
ある医師が、生活することを、忘れていると診断されました。約1年以降に、脳性マヒと診断されました。
両親は、それから毎日マッサージ師に連れて行ってくれました。
靴をはく事がなかったのです。
小学校も就学猶予いただきました。
1年後に養護学校に入学しました。
両親は喜んで、2人そろって参列してくれました。
私には3人の弟がいます。
一番上の姉です。でも姉らしいことは、何もできず弟が遊ぶことも、私にあわせてくれたのです。
父が「私の身体に変わって生活できない事をふびんに」思ったのでしよう❗
高等部まで養護学校にお世話になりました。
当時の養護学校は普通学校に即した教育でした。
学力テスト、模擬試験を、健全者とい校舎で一緒の校舎で受けました。
そして、大学入試にのぞみました。
両親は勉強部屋がないので、子どもの為に、文化住宅を借りてくれました。
ヤングリクエスト、ラジオ講義
等緊張感もありましたが、毎日がとても楽しかったです。
弟は毎日不安定な私を支えて、ベッドまで連れて行ってくれました。
私の生活環境はとても、良かったです
しかし大学に入学すると、体育等できないことが多くなりました。
文字の書く速さ等が違いました。
私は録音テープを講義に持って行き、自筆のノートも取りました。また友人からノートも借りました。とにかく、必死でした。当時私が一人
障害者だったのです。
必死に勉強しました。教師の免許は取りました。
就活にも励みました。
障害者雇用促進法できて、必死に会社を、回りました。
両親は家に居ても良いとの考えでした。
私は常に自分の可能性を試したい人間です。たとえそれが、マイナス思考になっても、何もやらず後悔するよりはいいからです。
何個の会社に門をたたきました。
面接に行き受付で転倒してしまいました。
しかしその会社に合格いたしました。
大学は私が就職活動で得たバッチを
卒業した時、父兄同行で学長室で誉めたたえてくれました。
私は親が喜んでくれる姿を見て、卒業後に手応えを感じ次の階段に、足を運びました。
仕事をすることは、お金を得るためと上の方に教えられました。
その会社は、いいたいことを隠さす言うところだったので、組合がなかったのです。
色んな経験をさせていただき、私寿退社になりました。
私の花嫁姿を見た両親の目には、光ったものがありました。
私はしあわせ者です。
両親、家庭等が前向きな環境でした。
私を重きにおいてくれました。
最後にネットに出会い真剣に考えて
くれたのも、現在のスタッフです。
私の意見を尊重してくれる、方々です。